紙ヒコーキの行方

趣味で書いたイタい小説や詩を投稿する、いわば黒歴史製造工場です。

思いつきのエッセイ

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 気分転換にサイクリングで淀川へ向かった。

 旭区と東淀川区の間に淀川が流れ、そこに大きな橋がかかっていた。橋を渡り、途中で止まると、大阪が都会であることがわかる。旭区側には梅田があり、高層ビル群が立ち並ぶ。対して東淀川区にはマンションと工場が見えた。その境目を淀川が区切っていた。

 僕はひとつ、自己発見をする。

 

 大きな川が好きである。

 

 思い返せば、旅先で岐阜を流れている長良川や、京都を流れる鴨川をひとりでぼーっと眺めたことが何度かある。

関東営業所で働いていた時は、営業者から見える荒川を少し楽しみにしていたこともあった。仕事が荒川の近くであったときは、いつか荒川に行きたいと思っていたこともある。

 では、なぜ川が好きなのかを考えてみよう。

 小さい川は悪くないが、どちらかというと、興味はない。中規模の河川、つまり、恩智川だったり寝屋川も大して好きではない。

ということで、僕は川自体が好きなわけではない。

 

先に結論を述べると、僕はただ、境界線が好きなだけである。それを大きな川を眺めていたときに発見した。

大きな橋からだと、境界のどちら側も眺めることができるので、この境界が何を区切っているのかを自由に想像したりすることが、楽しいのだ。中小規模の河川だとそれができない。

 

 境界線は僕らが生活する中で、切っても切り離せないものである。もっと具体的にいうと区切るという行為は、人間のあらゆるものを生み出したきたと思う。

具体例で例えば時間、カレンダー、音楽(リズム、音階)、貧相な発想で申し訳ないが、思いつくのはこれぐらいである。

 音楽はリズムがなければ、ただの詩歌になるし、音階は正確に440ヘルツごとに1オクターブに区切られる。

 カレンダーが生まれたことで、農耕は飛躍的な進歩をとげたと思うし、時間があることで、生活リズムが生まれたはずだ。

 

 抽象的な例で言えば、山や河川で区切られた地域、国家ぐらいだろうか。

 戦争のある側面を取り出すとすれば、それは領土の争いであり、近隣住民のトラブルも境界線をこえるから起こり得ることなのである。それは騒音だったり、異臭だったり、なんでもいい。

 境界線から内側が、自分のものなのにも関わらず、それを侵害されるから、あるいは、境界線をさらに外側へ広げようとするから、トラブルになるのである。

 

 境界線が曖昧になるとどうなるかというと、僕は自己の崩壊を招くと思っている。これは良い側面と悪い側面の両方あると思う。

 

 まずは良い側面を語ろう。

 友人同士の根本的な部分をみると、情報交換だ。もっと具体的にいうと、価値観の共有である。おもしろいこと、かなしいこと、自分の人生について、共有することで、そこから教訓を得て、自分の価値観に還元する。元の価値観を捨てて、アップデートするという訳だ。人間がグループを形成するひとつの理由だと思う。これは悪い話ではない。

 

 悪い側面でいうと、洗脳……なのかな。上記の例を間違えた価値観にすることで、説明はある程度つくと思う。説明が下手で申し訳ない。まだ境界線について、深く考察しきってはいない。思いつきで書いているから悪しからず。

 

 さて、境界線について、話だすとキリがないので、まとめに入ろう。

 安部公房の『内なる辺境』より「異端のパスポート」というというエッセイで衝撃を受けた文があったので紹介しよう。

 

 僕がどうして境界線が好きなのか、とか、僕が旅行が好きな理由もこれで説明がつく。

 この文章が自分がずっと心の中で説明できなかった、旅が好きな理由や、境界線に感心がある理由を代わりに代弁してくれて、補ってくれた。

 

(その文章はかつて世界を席巻していた遊牧民族について触れられている。内容は長いので、ある程度中略、改変して、紹介しておくことを明言しておく)

 

——遊牧民族は農耕民族の領土宣言定着の国家的完成と同時に生まれた、反領土的異端民族でもあったわけである。

 遊牧民族は、貧しくはなかったが、生産物が単純で自給ができず、農耕社会との交易に頼らざるを得なかったし、農耕社会の方でも、その保守性から、国境が犯されない限り、べつに交易を拒む理由もなかった。

 ところが、紀元前一千年頃になって、とつぜん事情が変わる。中央アジア草原の遊牧民族が騎馬の技術を身につけたのだ。行動範囲の拡大により、家畜の管理能力が飛躍的に上昇し、部族の組織化も進み、社会的単位として無視できないものになる。さらに騎馬の効用として軍事力の強化ということがあった……馬上から矢を射る騎馬戦術は、遊牧民全体を恐るべき軍団を仕立てあげることになる……南ロシア平原から東ヨーロッパ全土にかけてをその支配下に置き……そして13世紀のチンギス・ハーンモンゴル帝国で、世界の頂点に立った——

——草原の常勝騎馬軍団(遊牧民族)が実際に残しえたものは破壊の跡と死者の数を除けば、何ほどのものでもなかったのではあるまいか……歴史が与えた影響は意外に小さかったように思うのだ。あるいは、それが定着を拒んだものの宿命だったのかもしれない。敗れた王国でさえ、城跡を残しえたのに、勝った彼らは天幕の一枚も残さずに消え去った。

 だが、この破壊狂の騎馬隊も、ただ一つだけ、誰もがなしえかった、大きな功績があったように思うのだ。それは彼らが、ある場所を占領している間、そこには決して国境が作られなかったということである。定着国家の占領のように、国境線の引き直しの必要を認めなかった彼らは、壊した国境を、壊したままにしておいた。それまで、国境、地の涯、と信じ切っていた定着民の前に、とつぜん無限に遠のいて行く、本物の地平線が現れたのだ。国境の中では空間も時間も、すべて国境の中だけの独自な法則で、存在し、流れているのだと思い込んでいた定着民たちにとって、外の空間でも、やはり同じ時間が流れていたのだという発見は、どんな品物の交易や、知識の交流よりも、衝撃的な体験に相違いない——

 

 僕はただ、自分や、自分の環境が特殊でオンリーワンなものだと思っていた感覚を、粉々に叩き潰されたから、衝撃を受けたわけではない。きっと僕が今いる場所以外のどんなところでも時間は平等に流れているはずだし、それを信じて疑わない。

 ただ、実際に、無限に遠のいて行く、本物の地平線を目の当たりにした民族がいたことに、衝撃を受け、筆者の考え方に叩きのめされたのだ。

 

 先に述べた旅が好きな理由は、きっと境界線の先に同じ時間が流れているか確認しに行きたいと思っているからだろう。つまり自分を遊牧民族——もっとも遊牧民国家には国境がない。現在彼らの騎馬の蹄が踏んでいるその場所がすなわち領土なのである——に見立てて、境界線を無視して、踏み荒らしたいのだ。

 

 きっと生粋の遊牧民族として生まれた人間は、定着民族の農作物の収穫を見て感心したはずだろう。

 

 だから、僕は北海道の片田舎で、一家総出で、昆布を干していた家族を見て、あらためて衝撃を受けることができたのだ。