紙ヒコーキの行方

趣味で書いたイタい小説や詩を投稿する、いわば黒歴史製造工場です。

年末恒例

 

「人間とはなにか?」

 

 

 別に怪しい宗教でも自己啓発でもない。

 

 ただ、年末年始恒例の僕のつまらない話のテーマである。

 

 さて、人間の話の前に記録メディアの話から。

 

 最新のiPhone15は1TBのデジタル情報を記録することができる。それも保存できる情報の種類は数限りない。写真から個人の健康情報まで記録することができるのだから、驚きを通り越して、恐怖すら感じてしまう。

 

 しかし、そんな無敵のiPhoneにも弱点はある。

 

 例えば、水の中にいれてしまったら?

 

 残念ながら精密機械であるために、何かトラブルが起こって壊れてしまえば情報は失われる。(もちろんクラウドに情報を保管していれば話は別である)

 現代人にとって情報が失われるのは致命的だ。

 

 しかし、水の中はおろか炎の中にいれたとしても壊れない記録メディアが存在する。

 

 石である。

 

 石に情報を刻めば半永久的に情報を保存することは可能だ。さらには和紙の寿命も1000年ほどらしい。ただし、デジタルデータを記録することはできない。

 

 冗談はさておいて、記録や情報を伝えることが人間の本質の一部分ではないのかと、とある出来事がきっかけで思うようになった。それは後述する。

 

 理論的な話はできないが、人間は生活するうえで必ず情報を伝えている。例えば会話がそうだし、SNSも例に漏れない。他にも写真、映画、小説、こうして僕が書いているのも情報の伝達である。

 2021年の話ではあるが、早稲田大学の入学式での村上春樹のスピーチより、『小説というのは1000年以上にわたって、いろいろな形で、いろいろなところで、人々の手に取られてきました。小説家という職業は、まるでたいまつのように受け継がれてきました』と話している。

 世界的に評価されている作家がこういっているのだから、僕の話もあながち間違いではないはずだ。(傘に着るというのはこういうことである) 

 

 

 12月29日に私の父方の祖母が亡くなった。

 

 享年96歳。

 

 昭和2年軍艦島で産まれたらしい。

 

 大往生である。

 

 僕が最後に祖母に会ったのはおそらく10年前だから、そこからどんな姿になっていたかは僕もわからない。

 

 だから、今日の葬式に参列したかったのだけれど、仕事で行けなかった。

 

 仕方ない。

 

 ひとつ気分の悪くなる話を紹介しよう。

 

 祖母が96歳で亡くなったことを会社の同僚に話すと、

 

「自分なら人に迷惑かけてまで長生きしたくないわ」

 

 こんな会社を選んだ自分が悪い。すでに退職する決意はしていたが、準備を速めるべきだと感じた。

 

 愚痴はさておいて、僕は父方の祖母の死をきっかけに人間とは情報を保管している生き物なのだと思った。

 

 なぜそう思ったか。

 

 僕は祖母のことを何一つ知らないからである。

 

 知ってることといえば、昭和2年軍艦島で産まれた。享年96歳。あと左利き。これだけ。

 

 ご存知京都リベンジの近くに住んでいたので、わざわざあそこまで会いに行くような親しい間柄ではない。

 

 どんな人生を歩んでいたかは知らないが、少なくとも18歳に終戦を経験して、疎開していた上海から日本にひきあげてきた話を父がしていた。

 

 祖母はその目で何を見てきたのだろうか。何が好きで、何が嫌いで、何を大切な思い出としているのだろうか。

 

 その情報は永遠に中絶された。

 

 せめて、墓参りをしようと思ったが、その祖母の遺言により墓仕舞いしてしまったらしい。お骨はどこかの寺にひき取られるのだろう。

 

 こんなことを書いているが決して悲嘆しているわけではない。

 

 96歳になるとどんな人生観でいるのか聞いてみたかった気はするが、それなら自分が96歳まで生きればいい話である。

 

 僕の人生の目標のひとつに96歳まで生きることを加えようと思う。

 家系的には母方の祖父が何歳か忘れたが少なくとも80代後半なので、個人的に目指せる数字ではあるかもしれない。

 

 老人のように話が長くなってしまったが、最後に僕が最も気に入っている短歌のひとつを紹介して、このエッセイのようなものを締めたいと思う。

 

 それは万葉集より柿本人麻呂の短歌で、先に解説を載せておく。

 軽皇子(かるのみこ。後の文武天皇)を東の空の太陽に、彼の亡くなった父・草壁皇子(くさかべのみこ)を沈みゆく月に見立てて、父は不幸にして世を去ったが、あとを継ぐ息子がこの世を治めていくという意味をこめた歌であるとされている。

 

—東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ—

 

(現代語訳:東に太陽が昇って、振り返ると西の方角に月が沈んでゆく)

 

 お後がよろしいようで。